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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

一、「与大比丘衆(大比丘衆と)」の事
  仰せに云わく、文句の一に云わく「釈論に明かすに『大とは、また多と言い、また勝と言う。あまねく内外の経書を知るが故に、多と言う。また数一万二千に至るが故に、多と言う』。今、明かすに、大道有るが故に、大用有るが故に、大知有るが故に、故に『大』と言う。『勝』とは、道勝れ、用勝れ、知勝るるが故に『勝』と言う。『多』とは、道多く、用多く、知多きが故に『多』と言う」。また云わく「含容して、一心一切心なり。故に『多』と名づくるなり」。
  記の一に云わく「『一心一切心』と言うは、心・境ともに心にして、各一切を摂む。一切は三千を出でざるが故なり。つぶさには止観の第五の文のごとし。もし円心にあらずんば、三千を摂めず。故に、三千は総別ことごとく空・仮・中なり。一文既にしかり。他は皆これに準ぜよ」。
  この本末の意は、心・境の義の一念三千を釈するなり。止観の第五の文とは、「夫れ、一心に十法界を具す乃至不可思議境となす」の文を指すなり。心・境の義の一念三千とは、この「与大比丘衆」の「大」の字より釈し出だせり。「大多勝」の三字は、三諦・三観なり。円頓の行者の起念の当体は、三諦・三観にして「大多勝」なり。この釈に「総」というは、一心のことなり。「別」とは、三千なり。「一文」とは、「大」の一字なり。
  今、末法に入っては、法華経の行者、日蓮等の類い、正しく「大多勝」の修行なり。法華経の行者をば、釈迦如来を始め奉り、ことごとく大人となして敬い奉るなり。誠にもって大曼荼羅の同共の比丘衆なり。本門の事の一念三千・南無妙法蓮華経の「大多勝」の比丘衆なり。文々句々六万