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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

と今の「無量義」の題と一体不二の序・正なりと、相承の心を相伝せんがためなり。
第四 「処」の一字の事
  御義口伝に云わく、「処」の一字は、法華経なり。三蔵教と通教とは「無」の字に摂め、別教は「量」の字に摂め、円教は「義」の字に摂むるなり。この爾前の四教を所生と定め、さて序分のこの経を能生と定めたり。能生をしばらく「処」と云い、所生を「無量義」と定めたり。よって、権教に相対して「無量義処」を沙汰するなり云々。
第五 「無量義処」の事
  御義口伝に云わく、法華経八巻は「処」なり、無量義経は「無量義」なり。無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。法華経に「於一仏乗分別説三(一仏乗において分別して三を説きたもう)」と説いて、法華のための序分と成るなり。ここをもって隔別の三諦は無得道、円融の三諦は得道と定むるが故に、「四十余年、未顕真実(四十余年にはいまだ真実を顕さず)」と破したまえり云々。
第六 「無量義処」の事
  御義口伝に云わく、「無量義処」とは、一念三千なり。十界各々、無量に義処たり。この当体そのまま実相の一理より外はこれ無きを、「諸法実相」と説かれたり。そのための序なるが故に、一念三千の序として「無量義処」と云うなり。「処」は一念、「無量義」は三千なり。我ら衆生、朝夕吐くところの言語も、依正二法共に無量に義りたり。これを妙法蓮華経とは云うなり。しかるあいだ、法華のための序分、開経なり云々。