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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

なり。本門の事の常住、無作の三身に対して、迹門を無常と云うなり。守護章には「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏なり」云々。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作の三身、覚前の実仏なり云々。
第二 「量」の字の事
  御義口伝に云わく、「量」の字を本門に配当することは、「量」とは懸り摂むる義なり。本門の心は無作の三身を談ず。この無作の三身とは、仏の上ばかりにしてこれを云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずるが故に、迹門にして不変真如の理円を明かすところを改めずして、己が当体、無作の三身と沙汰するが、本門の事円の三千の意なり。
  これ即ち桜梅桃李の己々の当体を改めずして無作の三身と開見すれば、これ即ち「量」の義なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、無作の三身の本主なり云々。
第三 「義」の字の事
  御義口伝に云わく、「義」とは、観心なり。その故は、文は教相、義は観心なり。所説の文字を心地に沙汰するを、「義」と云うなり。なかんずく、「無量義」は、一法より無量の義を出生すと談ず。能生は「義」、所生は「無量」なり。これは無量義経の能生・所生なり。法華経と無量義経とを相対する能・所にあらざるなり。「無相不相、名為実相(相無く相ならざるを、名づけて実相となす)」の理より万法を開出すと云う。源が実相なるが故に、観心と云うなり。
  かくのごとく「無量義」の三字を、迹門・本門・観心に配当することは、法華の「妙法」等の題