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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

は実相を表し、終わりの「去」の字は久遠を表すなり。その故は、実相は理なり、久遠は事なり。理は空の義なり、空は如の義なり。これによって、「如」をば理・空に相配するなり。釈に云わく「『如』は不異に名づく。即ち空の義なり」。久遠は事なり。その故は、本門寿量の心は、事円の三千をもって正意となすなり。「去」は久遠に当たるなり。
  「去」は開の義、「如」は合の義なり。開は分別の心なり、合は無分別の意なり。この開合を生・仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生なり。序品の始めに「如」の字を顕したるは、生仏不二の義なり。迹門は不二の分なり、不変真如なるが故なり。この「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」の「如」をば、不変真如の「如」と習うなり。空仮中の三諦には、「如」は空、「是」は中、「我聞」は仮諦。迹門は空を面となす、故に不二の上の而二なり。しかるあいだ、而二の義を顕す時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて、本門の終わりの「去」は、随縁真如にして而二の分なり。よって「去」の字を置くなり。「作礼而去(礼を作して去りにき)」の「去」は、随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二にして不二なり」「常に同じく常に別なることは、古今法爾なり」の釈、これを思うべし。
  この「去」の字は、彼の「五千起去」の「去」と習うなり。その故は、五千とは五住の煩悩と相伝するあいだ、五住の煩悩が己心の仏を礼して去るという義なり。
  「如」「去」の二字は、生死の二法なり。伝教云わく「『去』は無来の如来、無去の円去なり」等云々。「如」の字は「一切法はこれ心なり」の義、「去」の字は「ただ心のみこれ一切法なり」の義