SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

第六 「此人不久当詣道場(この人は久しからずして当に道場に詣るべし)」の事
  御義口伝に云わく、「此人」とは、法華経の行者なり。法華経を持ち奉る処を、「当詣道場」と云うなり。ここを去ってかしこに行くにはあらざるなり。「道場」とは、十界の衆生の住所を云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所は、山谷曠野、皆、寂光土なり。これを「道場」と云うなり。「この因易わることなきが故に、『直至(直ちに至る)』と云う」の釈、これを思うべし。
  この品の時、最上第一の相伝あり。釈尊、八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲りたもうなり。八字とは「当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし)」の文なり。この文までにて経は終わるなり。「当」の字は未来なり。「当起遠迎」とは、必ず仏のごとくに法華経の行者を敬うべしという経文なり。法師品には「於此経巻敬視如仏(この経巻において敬い視ること仏のごとし)」と云えり。八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智慧」、終わりは「当起遠迎、当如敬仏」の八字なり。ただこの八字をもって、法華一部の要路とせり。されば、文句の十に云わく「『当起遠迎、当如敬仏』よりは、その信ずる者の功徳を結することを述ぶ」。法華一部は、「信」の一字をもって本とせり云々。
  尋ねて云わく、今の法華経において、序品には首に「如」の字を置き、終わりの普賢品には「去」の字を置く。羅什三蔵の心地、いかなる表事の法門ぞや。
  答えて云わく、今経の法体は、実相と久遠との二義をもって正体となすなり。始めの「如」の字