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末法の「無尽意」なり。詮ずるところ、「無」とは、我らが死の相なり。「尽」とは、我らが生の相なり。「意」とは、我らが命根なり。
しかるあいだ、一切の法門、境智冥合等の法門、「意」の一字にこれを摂入す。この「意」とは、中道法性なり。法性とは、南無妙法蓮華経なり。よって、「意」の五字なり。我らが胎内の五位の中には第五番の形なり。その故は、第五番の姿は五輪なり。五輪は即ち妙法等の五字なり。この五字、また「意」の字なり。仏意とは、妙法の五字なり。このこと別にこれ無し。仏の意とは、法華経なり。これを寿量品にして「是好良薬(この好き良薬)」とて、三世の諸仏の好みの良薬と説かれたり。森羅三千の諸法は、「意」の一字には過ぎざるなり。この仏の意を信ずるを、信心とは申すなり。されば、心は有分別なり。ともに妙法の全体なり云々。
第二 「観音妙」の事
御義口伝に云わく、「妙法」の梵語は「薩達摩」と云うなり。「薩」とは、「妙」と翻ず。この「薩」の字は、観音の種子なり。よって、「観音と法華とは、眼目の異名なり」と釈せり。今、末法に入って、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉ることは、観音の利益より天地雲泥せり。
詮ずるところ、「観」とは、円観なり。「世」とは、不思議なり。「音」とは、仏機なり。「観」とは、法界の異名なり。既に円観なるが故なり。諸法実相の「観世音」なれば、地獄・餓鬼・畜生等の界々を不思議世界と知見するなり。「音」とは、諸法実相なれば、衆生として実相の仏にあらずということなし。寿量品の時は十界本有と説いて無作の三身なり。観音既に法華経を頂受せり。し
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |