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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

第二十七 礼拝の住所は分真即の事
  御義口伝に云わく、菩薩は分真即の位と定むるなり。この位に立って理即の凡夫を礼拝するなり。
  これによって、理即の凡夫なるあいだ、この授記を受けずして「無智比丘(無智の比丘)」と謗りたり云々。
第二十八 究竟即は礼拝の住所の事
  御義口伝に云わく、「凡有所見(およそ見るところ有る)」の「見」は、仏知見なり。仏知見をもって上慢の四衆を礼拝するあいだ、究竟即を礼拝の住所と定むるなり云々。
第二十九 法界は礼拝の住所の事
  御義口伝に云わく、法界に立って礼拝するなり。法界とは広きにあらず、狭きにあらず。総じて、法とは諸法なり、界とは境界なり。地獄界乃至仏界、各々界を法るあいだ、不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り、上慢の四衆は四衆の界に法るなり。よって、法界が法界を礼拝するなり。自他不二の礼拝なり。その故は、不軽菩薩の四衆を礼拝すれば、上慢の四衆の具うるところの仏性もまた不軽菩薩を礼拝するなり。鏡に向かって礼拝をなす時、浮かべる影また我を礼拝するなり云々。
第三十 礼拝の住所は忍辱地の事
  御義口伝に云わく、既に、上慢の四衆、罵詈・瞋恚をなして虚妄の授記と謗るといえども、「不生瞋恚(瞋恚を生ぜず)」と説くあいだ、忍辱地に住して礼拝の行を立つるなり云々。
  初めの一つの住所は、世流布の学者も知れり。後の十三箇所は、当世の学者知らざることなり云々。
  已上、十四箇条の礼拝の住所なり云々。