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第十二 「常不軽菩薩豈異人乎。則我身是(常不軽菩薩はあに異人ならんや。則ち我が身これなり)」の事
御義口伝に云わく、過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり。釈尊は寿量品の教主なり。寿量品の教主とは、我ら法華経の行者なり。さては我らがことなり。今、日蓮等の類いは、不軽なり云々。
第十三 「常不値仏、不聞法、不見僧(常に仏に値わず、法を聞かず、僧を見ず)」の事
御義口伝に云わく、この文は、不軽菩薩を軽賤するが故に、三宝を拝見せざること二百億劫、地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり。今、末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せんことは、彼に過ぎたり。彼は千劫、これは「至無数劫(無数劫に至らん)」なり。
末法の「仏」とは、凡夫なり、凡夫僧なり。「法」とは、題目なり。「僧」とは、我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり。「深く円理を覚る。これを名づけて仏となす」の故なり。「円理」とは、法華経なり云々。
第十四 「畢是罪已、復遇常不軽菩薩(この罪を畢え已わって、また常不軽菩薩に遇う)」の事
御義口伝に云わく、もし法華誹謗の失を改めて信伏随従するとも、浅くあっては無間に堕つべきなり。先謗強きが故によるなり。千劫無間地獄に堕ちて、後に出ずる期有って、また日蓮に値うべきなり。復遇日蓮なるべし。
第十五 「於如来滅後(如来滅して後において)」等の事
御義口伝に云わく、不軽菩薩の修行はかくのごとくなり。仏の滅後に五種に妙法蓮華経を修行すべしと見えたり。正しく「是故(この故に)」より下の二十五字は、末法の日蓮等の類いのことなる
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |