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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

云えり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、色心共に清浄なり。身浄とは、法師功徳品に云わく「若持法華経 其身甚清浄(もし法華経を持たば、その身は、はなはだ清浄なり)」の文なり。心浄とは、提婆品に云わく「浄心信敬(浄心に信敬す)」云々。浄とは、法華経の信心なり。不浄とは、謗法なり云々。
第九 「言、是無智比丘(「この無智の比丘」と言う)」の事
  御義口伝に云わく、この文は法華経の明文なり。上慢の四衆、不軽菩薩を「無智比丘」と罵詈せり。「凡有所見(およそ見るところ有る)」の菩薩を「無智」ということは、第六天の魔王の所為なり。末法に入って日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、「無智比丘」と謗ぜられんこと、経文の明鏡なり。「無智」をもって法華経の機と定めたり。
第十 「聞其所説、皆信伏随従(その所説を聞いて、皆信伏随従す)」の事
  御義口伝に云わく、「聞」とは、名字即なり。所詮は、「而強毒之(しかも強いてこれを毒す)」の題目なり。「皆」とは、上慢の四衆等なり。「信」とは、「無疑曰信(疑いなきを信と曰う)」明了なり。「伏」とは、法華に帰伏するなり。「随」とは、心を法華経に移すなり。「従」とは、身をこの経に移すなり。詮ずるところ、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩なり。
第十一 「於四衆中説法、心無所畏(四衆の中において法を説くに、心に畏るるところ無し)」の事
  御義口伝に云わく、「四衆」とは、日本国の中の一切衆生なり。「説法」とは、南無妙法蓮華経なり。「心無所畏」とは、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と呼ばわるところの折伏なり云々。