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の句に摂むるなり。これらを「是諸罪衆生(この諸の罪の衆生)」と説かれたり。しかりといえども、この寿量品の説顕れては、「則皆見我身(則ち皆我が身を見る)」とて一念三千なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者、これなり云々。
第十六 「我亦為世父(我もまたこれ世の父なり)」の事
御義口伝に云わく、「我」とは釈尊、一切衆生の父なり。主・師・親において、仏に約し、経に約す。仏に約すとは、迹門の仏の三徳は、「今此三界(今この三界)」の文これなり。本門の仏の主・師・親の三徳は、主の徳は「我此土安穏(我がこの土は安穏なり)」の文なり。師の徳は、「常説法教化(常に法を説いて教化す)」の文なり。親の徳とは、この「我亦為世父」の文これなり。妙楽大師は、寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈したまえり。
経に約せば、「諸経中王(諸経の中の王なり)」は、主の徳なり。「能救一切衆生(能く一切衆生を救う)」は、師の徳なり。「又如大梵天王、一切衆生之父(また大梵天王の一切衆生の父なるがごとし)」の文は、父の徳なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救う故なり云々。
涅槃経に云わく「一切衆生の異の苦を受くるは、ことごとくこれ如来一人の苦なり」云々。日蓮云わく、一切衆生の異の苦を受くるは、ことごとくこれ日蓮一人の苦なるべし。
第十七 「放逸著五欲 堕於悪道中(放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕つ)」の事
御義口伝に云わく、「放逸」とは、謗法の名なり。「入阿鼻獄(阿鼻獄に入る)」、疑いなきものなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |