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第十一 「自我得仏来(我は仏を得てより来)」の事
御義口伝に云わく、一句三身の習いの文と云うなり。「自」とは、九界なり。「我」とは、仏界なり。この十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり。自も我も得たる仏来れり。十界本有の明文なり。「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身なり。この三身、無始無終の古仏にして「自得」なり。「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」これを思うべし。しからば則ち「本の遠寿を顕す」の説は永く諸教に絶えたり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「自我得仏来」の行者なり云々。
第十二 「為度衆生故 方便現涅槃(衆生を度せんがための故に、方便もて涅槃を現ず)」の事
御義口伝に云わく、涅槃経は法華経より出でたりという経文なり。既に「方便」と説かれたり云々。
第十三 「常住此説法(常にここに住して法を説く)」の事
御義口伝に云わく、「常住」とは、法華経の行者の住処なり。「此」とは、娑婆世界なり。山谷曠野を指して「此」とは説きたもう。「説法」とは、一切衆生の語言音声、本有の自受用智の説法なり。末法に入って「説法」とは、南無妙法蓮華経なり。今、日蓮等の類いの説法これなり。
第十四 「時我及衆僧 俱出霊鷲山(時に我および衆僧は、ともに霊鷲山に出ず)」の事
御義口伝に云わく、「霊山の一会、儼然としていまだ散らず」の文なり。「時」とは、感応末法の時なり。「我」とは釈尊、「及」とは菩薩、聖衆を「衆僧」と説かれたり。「俱」とは、十界なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |