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る仏にして、已も来も、無量なり無辺なり。百界千如・一念三千と説かれたり。「百」「千」の二字は、「百」は百界、「千」は千如なり。これ即ち事の一念三千なり。
今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、寿量品の本主なり。総じては、迹化の菩薩、この品に手をつけ、いろうべきにあらざるものなり。彼は迹表本裏、これは本面迹裏なり。しかりといえども、しかも当品は末法の要法にあらざるか。その故は、この品は在世の脱益なり。題目の五字ばかり当今の下種なり。しかれば、在世は脱益、滅後は下種なり。よって、下種をもって末法の詮となす云々。
第四 「如来如実知見三界之相、無有生死(如来は如実に三界の相を知見するに、生死有ることなし)」の事
御義口伝に云わく、「如来」とは、三界の衆生なり。この衆生寿量品の眼開けてみれば、十界本有と実のごとく知見せり。「三界之相」とは、生老病死なり。本有の生死とみれば、「無有生死」なり。生死無ければ、退出も無し。ただ生死無きのみにあらざるなり。生死を見て厭離するを、迷いと云い、始覚と云うなり。さて、本有の生死と知見するを、悟りと云い、本覚と云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するなり。
また云わく、「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退(もしは退)」も「若出(もしは出)」も、「在世」も「滅後」も、ことごとく皆本有常住の振る舞いなり。「無」とは、法界同時に妙法蓮華経の振る舞いより外は無きなり。「有」とは、地獄は地獄のありのまま、十界本有の妙法の全体なり。「生」とは、妙法の生なれば、随縁なり。「死」とは、寿量の死なれば、法界同時に真如なり。「若退」
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |