1049ページ
うなり。
総じて伏惑をもって寿量品の極とせず。ただ凡夫の当体、本有のままを、この品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なり云々。
第二 「如来秘密・神通之力(如来の秘密・神通の力)」の事
御義口伝に云わく、無作の三身の依文なり。この文において重々の相伝これ有り。「神通之力」とは、我ら衆生の作々発々と振る舞うところを、「神通」と云うなり。獄卒の罪人を呵責する音も、皆「神通之力」なり。生住異滅森羅三千の当体、ことごとく「神通之力」の体なり。今、日蓮等の類いの意は、即身成仏と開覚するを、「如来秘密・神通之力」とは云うなり。成仏するより外の「神通」と「秘密」とはこれ無きなり。この無作の三身をば、一字をもって得たり。いわゆる「信」の一字なり。よって、経に云わく「我等当信受仏語(我らは当に仏の語を信受したてまつるべし)」。「信受」の二字に意を留むべきなり。
第三 「我実成仏已来、無量無辺(我は実に成仏してより已来、無量無辺なり)」等の事
御義口伝に云わく、「我」とは、釈尊の久遠実成道なりということを説かれたり。しかりといえども、当品の意は、「我」とは、法界の衆生なり。十界己々を指して「我」と云うなり。「実」とは、無作の三身の仏なりと定めたり。これを「実」と云うなり。「成」とは、能成・所成なり。「成」は開く義なり。法界は無作の三身の仏なりと開きたり。「仏」とは、これを覚知するを云うなり。「已」とは、過去なり。「来」とは、未来なり。「已来」の言の中に現在は有るなり。我実と成けた
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(095)御義口伝 |