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第二 迦葉光明の事
御義口伝に云わく、「光明」とは、一切衆生の相好なり。「光」とは、地獄の灯燃猛火、これ即ち本覚自受用の智火なり。乃至仏果、これに同じ。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経の光明を謗法の闇冥の中に指し出だす。これ即ち迦葉の光明如来なり。迦葉は頭陀を本とす。頭陀は、ここに抖擻と云うなり。今、末法に入って、余行を抖擻して、専ら南無妙法蓮華経と修するは、「此経難持(この経は持ち難し)」「行頭陀者(頭陀を行ずる者)」、これなり云々。
第三 「捨是身已(この身を捨て已わる)」の事
御義口伝に云わく、この文段より捨・不捨の起こりなり。転捨にして永捨にあらず。転捨は本門なり、永捨は迹門なり。この身を捨つるは煩悩即菩提・生死即涅槃の旨に背くなり云々。詮ずるところ、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、「捨是身已」なり。不惜身命の故なり云々。
また云わく、「この身を捨す」と読む時は、法界に五大を捨すなり。捨つるところの義にあらず。この身を捨てて仏に成るというは、権門の意なり。かかる執情を捨つるを、「捨是身已」と説くなり。この文は一念三千の法門なり。「捨是身已」とは、「還って本理の一念三千に帰す」の意なり。妙楽大師の「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に、成道の時、この本理に称って、一身一念法界に遍し」と釈するは、この意なり云々。
第四 「宿世因縁 吾今当説(宿世の因縁、吾は今当に説くべし)」の事
御義口伝に云わく、「宿世因縁」とは、三千塵点の昔のことなり。下根のために宿世の因縁を説
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |