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第四 「破有法王 出現世間(有を破する法王は、世間に出現す)」の事
御義口伝に云わく、「有」とは、謗法の者なり。「破」とは、折伏なり。「法王」とは、法華経の行者なり。「世間」とは、日本国なり。また云わく、「破」は空、「有」は仮、「法王」は中道なり。されば、この文をば釈迦如来の種子と伝うるなり。総じて、三世の諸仏の世に出ずるは、この文に依るなり。「有」とは、三界二十五有なり。「破」とは、有執を破するなり。「法王」とは、十界の衆生の心法なり。「王」とは、心法を云うなり。諸法実相と開くを、「破有法王」とは云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、謗法の有執を断じて釈迦法王と成るということなり。「破有」の二字をもって、釈迦如来の種子とは云うなり。
また云わく、「有」と云うは、我らが煩悩・生死なり。この煩悩・生死を捨てて、別に菩提・涅槃有りと云うは、権教・権門の心なり。今経の心は、煩悩・生死をそのまま置いて菩提・涅槃と開くところを「破」と云うなり。「有」とは煩悩、「破」とは南無妙法蓮華経なり。「有」は所破なり、「破」は能破なり。能破・所破共に実相の一理なり。序品の時は「尽諸有結(諸の有結を尽くして)」と説き、この品には「破有法王」と説き、譬喩品の時は「皆是我有(皆これ我が有なり)」と宣べたり云々。
第五 「我観一切 普皆平等 無有彼此 愛憎之心 我無貪著 亦無限礙(我は一切を観ること、あまねく皆平等にして、彼此・愛憎の心有ることなし。我に貪著無く、また限礙無し)」の事
御義口伝に云わく、この六句の文は、五識なり。「我観一切 普皆平等」とは、九識なり。「無有彼此」とは、八識なり。「愛憎之心」とは、七識なり。「我無貪著」とは、六識なり。「亦無限礙」
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |