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字、元品の無明を切る利剣なり。その故は、「信」は、「疑いなきを『信』と曰う」とて、疑惑を断破する利剣なり。「解」とは、智慧の異名なり。「信」は価のごとく、「解」は宝のごとし。三世の諸仏の智慧をかうは「信」の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。「信」は智慧の因にして名字即なり。「信」の外に「解」無く、「解」の外に「信」無し。「信」の一字をもって妙覚の種子と定めたり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と信受・領納する故に、「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚は、求めざるに自ずから得たり)」の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり。
また云わく、「信」は、不変真如の理なり。その故は、「信」は、「一切法は皆これ仏法なりと知る」と体達して、実相の一理と信ずるなり。「解」は、随縁真如なり。自受用智を云うなり。文句の九に云わく「疑いなきを『信』と曰う。明了なるを『解』と曰う」。文句の六に云わく「中根の人、譬喩を説くを聞いて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る。故に名づけて『信』となす。進んで大乗の修道に入る。故に名づけて『解』となす」。記の六に云わく「大をもってこれに望むるに、乃ち両字を分かちて、もって二道に属す。疑いを破するが故に『信』なり。進んで入るを『解』と名づく。『信』は二道に通じ、『解』はただ修のみに在り。故に修道を『解』と名づくと云う」。
第二 「捨父逃逝(父を捨てて逃逝す)」の事
文句の六に云わく「『捨父逃逝』とは、大を退するを『捨』となし、無明自ずから覆うを『逃』と曰い、生死に趣向するを『逝』となす」。
御義口伝に云わく、「父」において三つこれ有り。法華経・釈尊・日蓮これなり。法華経は一切衆
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |