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うは、教相なり。真実は初住分証のところにて一経は極まりたるなり。
第五 「而自廻転(しかして自ずから廻転す)」の事
記の五に云わく「あるいは大論のごとし。経に『而自廻転』と云うは、身子の記を得るを聞いて、法性自然にして転じ、因果・依正・自他ことごとく転ずるを表す」。
御義口伝に云わく、草木成仏の証文に「而自廻転」の文を出だすなり。これ一念三千の依正体一の成仏を説き極めたるなり。草木成仏の証人とは、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るを指すなり。「廻転」とは、題目の五字なり。「自」とは、我ら行者のことなり。記の五の釈、能く能くこれを思うべし云々。
第六 「一時俱作(一時にともに作す)」の事
御義口伝に云わく、「一時」とは、末法の一時なり。「俱作」とは、南無妙法蓮華経なり。「俱」とは、「畢竟住一乗(畢竟して一乗に住す)」なり。今、日蓮等の類いの所作には題目の五字なり。余行を交えざるなり。また云わく、十界の語言は、一返の題目をともに作したり。これ、あに感応にあらずや。
第七 「以譬喩得解(譬喩をもって解することを得ん)」の事
止観の五に云わく「『智者は譬えに因る』。この意、徴有り」。
御義口伝に云わく、この文をもって鏡像の円融三諦のことを伝うるなり。総じて、鏡像の譬えとは、自浮自影の鏡のことなり。この鏡とは、一心の鏡なり。総じて、鏡について重々の相伝これ有り。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |