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なり。この音声を信解品に「以仏道声 令一切聞(仏道の声をもって、一切をして聞かしめん)」と云えり。「一切」は、法界の衆生のことなり。この音声とは、南無妙法蓮華経なり。
第三 「身意泰然、快得安穏(身意泰然として、快く安穏なることを得たり)」の事
文句の五に云わく「『従仏』は、これ身の喜びを結するなり。『聞法』は、これ口の喜びを結するなり。『断諸疑悔(諸の疑悔を断ず)』は、これ意の喜びを結するなり」。
御義口伝に云わく、「身意泰然」とは、煩悩即菩提・生死即涅槃なり。「身」とは、生死即涅槃なり。「意」とは、煩悩即菩提なり。「従仏」とは、日蓮に従う類い等のことなり。「口の喜び」とは、南無妙法蓮華経なり。「意の喜び」とは、無明の惑障無きが故なり。ここをもってこれを思うに、この文は一心三観・一念三千、我らが即身成仏なり。方便の教えは「泰然」にあらず、「安穏」にあらざるなり。「行於険逕、多留難故(険逕を行くに、留難多きが故なり)」の教えなり。
第四 「得仏法分(仏法の分を得たり)」の事
御義口伝に云わく、「仏法分」とは、初住の一分の中道を云うなり。「迹門初住、本門二住已上」と云うことは、この「分」の字より起こるなり。詮ずるところ、この「分」の一字は一念三千の法門なり。その故は、地獄は地獄の分にて仏果を証し、乃至、三千の諸法己々の当体の分にて仏果を証したるなり。真実の我らが即身成仏なり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱うる分にて仏果を証したるなり。「分」とは、権教は無得道、法華経は成仏と分かつと意得べきなり。
また云わく、「分」とは、本門寿量品の意なり。己々本分の分なり。総じて、迹門初住分証と云
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |