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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

  また云わく、五千の退座ということ、法華の意は不退座なり。その故は、諸法実相・略開三顕一の開悟なり。さてその時は、「我慢」「増上慢」とは、慢即法界と開いて本有の慢機なり。「其数有五千」とは、我らが五住の煩悩なり。もしまた五住の煩悩無しと云わば、法華の意を失いたり。五住の煩悩有りながら本有常住ぞと云う時、「其数有五千」と説くなり。断惑に取り合わず、そのまま本有の妙法の五住と見れば、「不自見其過」と云うなり。
  さて、「於戒有欠漏」とは、小乗・権教の対治衆病の戒法にてはなきなり。「是名持戒(これを戒を持つと名づく)」の妙法なり。故に欠漏の当体そのまま「是名持戒」の体なり。しかるに、欠漏をそのまま本有と談ずる故に、「護惜其瑕疵(その瑕疵を護り惜しむ)」とは説くなり。元より一乗の妙戒なれば、「一塵含法界、一念遍十方(一塵に法界を含み、一念は十方に遍し)」の故に、「是小智已出(この小智はすでに出でぬ)」と云うなり。「糟糠」とは、塵々法々、本覚の三身なり。故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり。
  「不堪受是法(この法を受くるに堪えず)」とは、略開の諸法実相の法体を聞いて、そのまま開悟するなり。さて、身子尊者、鈍根のために分別して解説したまえと請う広開三の法門をば、「不堪受是法」と説く。
  さて、法華の実義に帰って見れば、妙法の法体はさらに能受・所受を忘るるなり。不思議の妙法なり。本法の重を悟って見るが故に、「此衆無枝葉(この衆に枝葉無し)」と云うなり。かかる内証は「純一実相、実相外更無別法(純一の実相にして、実相の外にさらに別の法無し)」なれば、「唯有諸貞実(ただ