御義口伝に云わく、この本末の釈の意は、五千の上慢を釈するなり。委しくは本末を見るべきなり。「比丘・比丘尼」の二人は、出家なり。共に「増上慢」と名づく。「疵を蔵し徳を揚ぐ」をもって本とせり。「優婆塞」は男なり、「我慢」をもって本とせり。「優婆夷」は女人なり、「無慙」をもって本とせり。この四衆は、今、日本国に盛んなり。経には「其数有五千(その数五千有り)」とあれども、日本国に四十九億九万四千八百二十八人と見えたり。在世には、五千人、仏の座を立てり。今、末法にては、日本国の一切衆生、ことごとく日蓮が所座を立てり。「比丘・比丘尼の増上慢」とは、道隆・良観等にあらずや、また鎌倉中の比丘尼等にあらずや。「優婆塞」とは最明寺、「優婆夷」とは上下の女人にあらずや。あえて我が過を知るべからざるなり。今、日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ。あに「不自見其過」の者にあらずや。大謗法の罪人なり。法華の御座を立つこと疑いなきものなり。しかりといえども、日蓮に値うこと、これしかしながら「礼仏而退(仏を礼して退きぬ)」の義なり。この「礼仏而退」は軽賤の義なり。全く信解の礼退にあらざるなり。これらの衆は「於戒有欠漏(戒において欠漏有り)」の者なり。文句の四に云わく「『於戒有欠漏』とは、律儀に失有るをば『欠』と名づけ、定共・道共に失有るをば『漏』と名づく」。
この五千の上慢とは、我らの具うるところの五住の煩悩なり。今、法華経に値い奉る時、慢即法界と開いて「礼仏而退」するを、「仏威徳故去(仏の威徳の故に去りぬ)」と云うなり。「仏」とは、我らの具うるところの仏界なり。「威徳」とは、南無妙法蓮華経なり。「故去」とは、「而去不去(しかして去って去らず)」の意なり。普賢品の「作礼而去(礼を作して去りにき)」、これを思うべきなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |