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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 次に、「大日如来は法身」と云わば、「法華よりは『いまだ真実を顕さず』と嫌い捨てられたる爾前権教にも、法身如来と説きたり。何ぞ不思議なるべきや」と云うべきなり。もし無始無終の由を云っていみじき由を立て申さば、「必ず大日如来に限らず、我ら一切衆生、螻蟻蚊虻等に至るまで、みな無始無終の色心なり。衆生において有始有終と思うは、外道の僻見なり。汝外道に同ず、いかん」と云うべきなり。
 次に、念仏は、これ浄土宗の用いるところの義なり。これまた権教の中の権教なり。譬えば、夢の中の夢のごとし。有名無実にして、その実無きなり。一切衆生願って所詮なし。しかれば、云うところの仏も有為無常の阿弥陀仏なり。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば、本朝の根本大師の御釈に云わく「有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏」と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば、大いにいましめ、捨ておかれ候なり。既に憑むところの阿弥陀仏、有名無実にして名のみ有ってその体なからんには、往生すべき道理をば、委しく須弥山のごとく高く立て、大海のごとくに深く云うとも、何の所詮有るべきや。
 また「経論に正しき明文ども有り」と云わば、「明文ありとも、『いまだ真実を顕さず』の文なり。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて、いずれの経教・論釈にか、成仏の明文無からんや。しかれども、権教の明文なる時は、汝等が執するところの拙きにてこそあれ、経論に無き僻事なり。いずれも、法門の道理を宣べ厳り依経を立てたりとも、夢中の権果にて無用の義に成るべきなり。返す返す。