517ページ
「無一不成仏」の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となることも、これ期するところの余命にはあらざるをや。すべて過ぎにし方をかぞえて年の積もるをば知るといえども、今行く末において、一日片時も誰か命の数に入るべき。臨終すでに今にありとは知りながら、我慢偏執・名聞利養に著して妙法を唱え奉らざらんことは、志の程無下にかいなし。さこそは、「皆成仏道」の御法とは云いながら、この人いかでか仏道にものうからざるべき。色なき人の袖には、そぞろに月のやどることかは。
また命すでに一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説き給えり。もしこれ二念三念を期すと云わば、平等大慧の本誓、頓教・一乗・皆成仏の法とは云わるべからず。流布の時は末世・法滅に及び、機は五逆・謗法をも納めたり。故に、「頓証菩提」の心におきてられて、狐疑・執著の邪見に身を任することなかれ。
生涯いくばくならず。思えば一夜のかりの宿を忘れて、いくばくの名利をか得ん。また得たりとも、これ夢の中の栄え、珍しからぬ楽しみなり。ただ先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらんことは、眼に遮り、耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん。昔の人はただ名をのみきく。露とや消え、煙とや登りけん。今の友もまたみえず。我いつまでか三笠の雲と思うべき。春の花の風に随い、秋の紅葉の時雨に染まる。これ皆、ながらえぬ世の中のためしなれば、法華経には「世は皆牢固ならざること、水沫泡焰のごとし」とすすめたり。
「何をもってか衆生をして無上道に入ることを得しめん」の御心のそこ、順縁・逆縁の御ことのは
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(030)持妙法華問答抄 | 弘長3年(’63) | 42歳 |