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答えて云わく、これにおいて二義有り。
一義に云わく、四十余年の間において、歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り。法華経においては、ただ一つの速疾頓成の戒のみ有り。その中において、四十余年の間の歴劫修行の戒においては法華経の戒に劣るといえども、四十余年の間の速疾頓成の戒においては法華経の戒に同じ。故に、上に出だすところの「衆生、仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る」等の文は、法華経の「須臾もこれを聞かば、即ち究竟することを得」の文にこれ同じ。ただし、無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云えるは、四十余年の内の歴劫修行の戒ばかりを嫌うなり。速疾頓成の戒をば嫌わざるなり。
一義に云わく、四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒、法華経の戒は速疾頓成の戒なり。ただし、上に出だすところの四十余年の諸経の速疾頓成の戒においては、凡夫地より速疾頓成するにあらず。凡夫地より無量の行を成じて、無量劫を経、最後において凡夫地より即身成仏す。故に、最後に従って速疾頓成とは説くなり。委悉にこれを論ずれば、歴劫修行の所摂なり。故に、無量義経には総じて四十余年の経を挙げて、仏、無量義経の速疾頓成に対して、「菩薩の歴劫修行を宣説す」と嫌いたまえり。大荘厳菩薩、この義を承けて領解して云わく「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず。何をもっての故に。菩提の大直道を知らざるが故に、険逕を行くに、留難多きが故なり」乃至「大直道を行くに、留難無きが故なり」文。もし四十余年の間に、無量義経・法華経のごとく速疾頓成の戒これ有らば、仏みだりに四十余年の実義を隠したもうの失これ有り云々。
二義の中に後の義を作すは、存知の義なり。相待妙の戒これなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(026)十法界明因果抄 | 文応元年(’60)4月21日 | 39歳 |