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その時、阿弥陀仏の一・二の弟子、観音・勢至等は、阿弥陀仏の塩梅なり、双翼なり、左右の臣なり、両目のごとし。しかるに、極楽世界よりはるばると御供し奉りたりしが、無量義経の時、仏の阿弥陀経等の四十八願等は「いまだ真実を顕さず」、乃至法華経にて「一に阿弥陀と名づく」と名をあげて、これらの法門は真実ならずと説き給いしかば、実とも覚えざりしに、阿弥陀仏正しく来って合点し給いしをうち見て、「さては、我らが念仏者等を九品の浄土へ来迎の蓮台と合掌の印とは、虚しかりけり」と聞き定めて、「さては、我らも本土に還って何かせん」とて、八万・二万の菩薩のうちに入り、あるいは観音品に「娑婆世界に遊ぶ」と申して、「この土の法華経の行者を守護せん」とねんごろに申せしかば、日本国より近き一閻浮提の内、南方補陀落山と申す小所を、釈迦仏より給わって宿所と定め給う。
阿弥陀仏は左右の臣下たる観音・勢至に捨てられて西方世界へは還り給わず、「この世界に留まって法華経の行者を守護せん」とありしかば、この世界の内、欲界第四の兜率天、弥勒菩薩の所領の内、四十九院の一院を給わって、阿弥陀院と額を打っておわするとこそうけたまわれ。
その上、阿弥陀経には、仏、舎利弗に対して凡夫の往生すべきようを説き給う。「舎利弗、舎利弗」また「舎利弗、舎利弗」と、二十余所までいくばくもなき経によび給いしは、かまびすしかりしことぞかし。しかれども、四紙一巻が内、すべて舎利弗等の諸声聞の往生・成仏を許さず、法華経に来ってこそ始めて華光如来・光明如来とは記せられ給いしか。一閻浮提第一の大智者たる舎利弗すら、浄土の三部経にて往生・成仏の跡をけずる。まして末代の牛羊のごとくなる男女、彼々の経々にて生死
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |