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えて小乗の戒等を止めて大乗を用ゆ。大乗また叶わねば、法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立して代を治めたり。いわゆる、伝教大師、日本三所の小乗戒ならびに華厳・三論・法相の三大乗を破失せし、これなり。
この大師は、六宗をせめ落とさせ給うのみならず、禅宗をも習い極め、あまつさえ、日本国にいまだひろまらざりし法華宗・真言宗をも勘え出だして勝劣鏡をかけ、顕密の差別、黒白なり。しかれども、世間の疑いを散じがたかりしかば、去ぬる延暦年中に御入唐。漢土の人々も他事には賢かりしかども、法華経・大日経、天台・真言の二宗の勝劣・浅深は分明に知らせ給わざりしかば、御帰朝の後、本の御存知のごとく、妙楽大師の記の十の不空三蔵の改悔の言を含光がかたりしを引き載せて、天台勝れ真言劣るなる明証を依憑集に定め給う。
あまつさえ、真言宗の宗の一字を削り給う。その故は、善無畏・金剛智・不空の三人、一行阿闍梨をたぼらかして、本はなき大日経に天台の己証の一念三千の法門を盗み入れて、人の珍宝を我が有とせる大狂惑の者なりと心得給えり、例せば、澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳経に盗み入れて、還って天台宗を末教と下せしがごとしと御存知あって、宗の一字を削って「叡山はただ七宗たるべし」と云々。
しかるを、弘法大師と申せし天下第一の自讃毀他の大妄語の人、教大師御入滅の後、対論なくして公家をかすめたてまつりて八宗と申し立てぬ。しかれども、本師の跡を紹継する人々は叡山はただ七宗にてこそあるべきに、教大師の第三の弟子・慈覚大師と、叡山第一の座主義真和尚の末弟子・智証
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |