283ページ
伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下らして小風も吹かざりしも、たっとくぞおぼゆる、たっとくぞおぼゆる。
法華経に云わく「あるいは阿練若に納衣にして空閑に在って乃至利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごときもの有らん」。また云わく「常に大衆の中に在って我らを毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士および余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて乃至悪鬼はその身に入って、我を罵詈・毀辱せん」。また云わく「濁世の悪比丘は、仏の方便、宜しきに随って説きたもうところの法を知らず、悪口して顰蹙し、しばしば擯出せられん」等云々。涅槃経に云わく「一闡提有って、羅漢の像を作して空処に住し、方等大乗経典を誹謗す。諸の凡夫人見已わって、皆『真の阿羅漢にして、これ大菩薩なり』と謂わん」等云々。
今、予、法華経と涅槃経との仏鏡をもって、当時の日本国を浮かべてその影をみるに、誰の僧か国主に六通の羅漢のごとくたっとまれて、しかも、法華経の行者を讒言して頸をきらせんとせし。また、いずれの僧か万民に大菩薩とあおがれたる。誰の智者か、法華経の故に度々処々を追われ、頸をきられ、弟子を殺され、両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし。眼無く耳無きの人は除く。眼有り耳有らん人は経文を見聞せよ。今の人々は、人ごとに経文を「我もよむ、我も信じたり」という。ただにくむところは日蓮ばかりなり。経文を信ずるならば、たしかにのせたる強敵を取り出だして、経文を信じてよむしるしとせよ。もししからずんば、経文のごとく読誦する日蓮をいかれるは、経文
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |