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この人々の義にいわく「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分なり。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、この経は天子の一言なり。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てても及ばず、ただ法華経ばかりこそ大日経には相似の経なれ。されども、彼の経は釈迦如来の説、民の正言。この経は天子の正言なり。言は似たれども、人がら雲泥なり。譬えば、濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども、水に清濁あり」なんど申しければ、この由尋ね顕す人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智死去の後、不空三蔵また月氏にかえりて菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。
ただし、妙楽大師という人あり。天台大師よりは二百余年の後なれども、智慧かしこき人にて天台の所釈を見明らめてありしかば、「天台の釈の心は、後にわたれる深密経・法相宗、また始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給いたりけるを、あるいは智のおよばざるか、あるいは人を畏るるか、あるいは時の王威をおずるかの故にいわざりけるか。こうてあるならば、天台の正義すでに失せなん。また陳・隋已前の南北が邪義にも勝れたり」とおぼして、三十巻の末文を造り給う。いわゆる弘決・釈籤・疏記これなり。この三十巻の文は、本書の重なれるをけずりよわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば御責めにものがれてあるようなる法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。
また日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像をわたす。また用明天皇の御宇に、聖徳太子、仏法をよみはじめ、和気妹子と申す臣下を漢土
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |