埵、生死絶断の際、定光覚悟の大菩薩なり。伝教云わく「文殊の利剣は六輪に通じ、十二の生類を切断す。一刀〈妙法〉を下して万方に勅するに、自然になお三諦を出だす。見聞覚知に明らかなり。この一言の三際を示すに一言にしかず。もし未達の者も一頌〈題目〉を開くに三般〈三諦〉同じく通ぜざることなし。知んぬ、生・仏自ずから一現なる、これを一言の妙旨、一教の玄義と謂う」云々。天台云わく「一言三諦・刹那成道・半偈成道」云々。伝教云わく「仏界の智は九界を境となし、九界の智は仏界を境となす。境智互いに冥薫して凡聖常恒なる、これを刹那成道と謂う。三道即三徳と解れば、諸悪たちまちに真善なる、これを半偈成道と名づく」。今、会釈して云わく、諸の仏菩薩の定光三昧も、凡聖一如の証道、刹那・半偈の成道も、我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂め尽くすものなり。
この血脈を列ぬることは、末代浅学の者の予が仮字の消息を蔑如し、天台の漢字の止観を見て眼目を迷わし、心意を驚動し、あるいは仮字を漢字と成し、あるいは「止観の明静なることは、前代にいまだ聞かず」の見に耽り、本迹一致の思いを成す。我が内証の寿量品を知らずして止観に同じ、ただ自見の僻見を本として、予が立義を破失して悪道に堕つべき故に、天台三大章疏の奥伝に属し天台・伝教等の秘し給える正義、生死一大事の秘伝を書き顕し奉ることは、かつは恐れ有り、かつは憚り有り。広宣流布の日、公亭において応にこれを披覧し奉るべし。会通を加うることは、かつは広宣流布のため、かつは末代浅学のためなり。また天台・伝教の釈等も、予が真実の本懐にあらざるか。未来嬰児の弟子等、彼を本懐かと思うべきものか。
去ぬる文永の免許の日、「爾前・迹門の謗法を対治し、本門の正義を立てらるれば、不日に豊歳ならん」と申せしかば、聞く人ごとに舌を振るい、耳を塞ぐ。その時、方人一人も無く、唯我〈日蓮〉与我〈日興〉ばかりなり。
問うて云わく、寿量品文底の大事という秘法、いかん。
答えて云わく、唯密の正法なり。秘すべし、秘すべし。一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむることを脱益の文の上と申すなり。文の底とは、久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達の正観、事行の一念三千の南無妙
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(458)本因妙抄 |