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ずく予が門弟は、万事をさしおきてこの一事に心を留むべきなり。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申し宣べたる法門繁多なりといえども、詮ずるところは、ただこの一途なり。
世間の学者の中に真言家に立てたる即身成仏は、釈尊の説くところの四味三教に接入したる大日経等の三部経に、別教の菩薩の授職灌頂を至極の即身成仏等と思う。これは、七位の中の十回向の菩薩の歓喜地を証得せる為体なり、全く円教の即身成仏の法門にあらず。たとい経文にあるよしを訇るとも、歓喜行証得の上に得たるところの功徳を沙汰する分斉にてあるなり。これ十地の菩薩の因分の所行にして、十地・等覚は果分を知らず。円教の心をもって奪っていえば、六即の中の名字・観行の一念に同じ。与えて云う時は、観行即の事理和融にして、理慧相応の観行に及ばず。あるいは菩提心論の文により、あるいは大日経の三部の文によれども、即身成仏にこそあらざらめ。生身得忍にだにも云いよせざる法門なり。
されば、世間の人々は、菩提心論の「ただ真言の法の中にのみ」の文に落とされて、即身成仏は真言宗に限ると思えり。これによって、正しく即身成仏を説き給いたる法華経をば「戯論」等云々。止観の五に云わく「たとい世を厭う者も下劣の乗を翫び、枝葉に攀附し、狗の作務に狎れ、獼猴を敬って帝釈となし、瓦礫を崇めてこれ明珠なりとす。この黒闇の人、あに道を論ずべけんや」等云々、この意なるべし。歎かわしきかな、華厳・真言・法相の学者、いたずらにいとまをついやし、即身成仏の法門をたつることよ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(412)妙一女御返事(事理成仏抄) | 弘安3年(’80)10月5日 | 59歳 | 妙一女 |