2120ページ
濁水に珠を入れぬれば水すみ、月に向かいまいらせぬれば人の心あこがる。画にかける鬼には心なけれどもおそろし。とわりを画にかけば、我が夫をばとらねどもそねまし。錦のしとねに蛇をおれるは服せんとも思わず。身のあつきにあたたかなる風いとわし。人の心もかくのごとし。法華経の方へ御心をよせさせ給うは、女人の御身なれども、竜女が御身に入らせ給うか。
さてはまた、尾張次郎兵衛尉殿の御事。見参に入って候いし人なり。日蓮はこの法門を申し候えば、他人にはにず多くの人に見えて候えども、いとおしと申す人は千人に一人もありがたし。彼の人は、よも心よせには思われたらじなれども、自体人がらにくげなるふりなくよろずの人になさけあらんと思いし人なれば、心の中はうけずこそおぼしつらめども、見参の時はいつわりおろかにてありし人なり。また女房の信じたるよしありしかば、実とは思い候わざりしかども、またいとう法華経に背くことはよもおわせじなれば、たのもしきへんも候。されども、法華経を失う念仏ならびに念仏者を信じ、我が身も多分は念仏者にておわせしかば、後生はいかがとおぼつかなし。譬えば、国主はみやづかえのねんごろなるには、恩のあるもあり、またなきもあり。少しもおろかなること候えば、とがになること疑いなし。法華経もまたかくのごとし。いかに信ずるようなれども、法華経の御かたきにも、知れ知らざれ、まじわりぬれば、無間地獄は疑いなし。
これはさておき候いぬ。彼の女房の御歎き、いかがとおしはかるに、あわれなり。たとえば、ふじのはなのさかんなるが、松にかかりて思うこともなきに、松のにわかにたおれ、つたのかきにかかれるが、かきの破れたるがごとくにおぼすらん。内へ入れば主なし、やぶれたる家の、柱なきがごと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(409)妙法比丘尼御返事 | 弘安元年(’78)9月6日 | 57歳 | 妙法尼 |