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に生長ありしかば、またこの衣次第に広く長くなる。冬はあつく、夏はうすく、春は青く、秋は白くなり候いしほどに、長者にておわせしかば、何事もともしからず。後には仏の記しおき給いしことたがうことなし。故に、阿難尊者の御弟子とならせ給いて御出家ありしかば、この衣変じて五条・七条・九条等の御袈裟となり候いき。
かかる不思議の候いし故を仏の説かせ給いしようは、乃往過去阿僧祇劫の当初、この人は商人にてありしが、五百人の商人とともに大海に船を浮かべてあきないをせしほどに、海辺に重病の者あり。しかれども、辟支仏と申して貴人なり。先業にてやありけん、病にかかりて、身やつれ心おぼれ、不浄にまとわれておわせしを、この商人あわれみ奉って、ねんごろに看病して生かしまいらせ、不浄をすすぎすてて、麤布の商那衣をきせまいらせてありしかば、この聖人悦んで願じて云わく「汝、我を助けて身の恥を隠せり。この衣を今生・後生の衣とせん」とて、やがて涅槃に入り給いき。この功徳によりて、過去無量劫の間、人中・天上に生まれ、生まるる度ごとに、この衣身に随って離るることなし。乃至、今生に釈迦如来の滅後、第三の付嘱をうけて商那和修と申す聖人となり、摩突羅国の優留荼山と申す山に大伽藍を立てて無量の衆生を教化して、仏法を弘通し給いしこと二十年なり。詮ずるところ、商那和修比丘の一切のたのしみ・不思議は皆、彼の衣より出生せりとこそ説かれて候え。
しかるに、日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。この国は、仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当たって二十万余里の外、遥かなる海中の小島なり。しかるに、仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏・漢土の人のこの国の人々を見候えば、この国の人の伊豆の大島、奥州の東のえ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(409)妙法比丘尼御返事 | 弘安元年(’78)9月6日 | 57歳 | 妙法尼 |