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文の心は、仏は悲の故に、後のたのしみをば閣いて、当時法華経を謗じて地獄におちて苦にあうべきを悲しみ給いて座をたたしめ給いき。譬えば、母の子に病あると知れども、当時の苦を悲しんで左右なく灸を加えざるがごとし。喜根菩薩は、慈の故に、当時の苦をばかえりみず後の楽を思って強いてこれを説き聞かしむ。譬えば、父は、慈の故に、子に病あるを見て当時の苦をかえりみず後を思う故に灸を加うるがごとし。
また、仏の在世には、仏法華経を秘し給いしかば、四十余年の間、等覚・不退の菩薩、名をしらず。その上、寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給いて最後にきかしめ給いき。末代の凡夫には左右なくいかんがきかしむべきとおぼゆるところを、妙楽大師釈して云わく「仏世は当機の故に簡ぶ。末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給えり。
文の心は、仏の在世には、仏、一期の間多くの人不退の位にのぼりぬべき故に、法華経の名義を出だして謗ぜしめず、機をこしらえてこれを説く。仏の滅後には、当機の衆は少なく結縁の衆多きが故に、多分に就いて左右なく法華経を説くべしという文なり。
これ体の多くの品あり。また末代の師は多くは機を知らず。機を知らざらんには、強いて、ただ実教を説くべきか。されば、天台大師、釈して云わく「等しくこれ見ざれば、ただ大のみを説くに咎無し」文。文の心は、機をも知らざれば大を説くに失なしという文なり。また時の機を見て説法する方もあり。皆国中の諸人、権経を信じて実経を謗じあながちに用いざれば、弾呵の心をもって説くべきか。時によって用否あるべし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(001)唱法華題目抄 | 文応元年(’60)5月28日 | 39歳 |