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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

大小をば分かちて大において権実を分かたず、あるいは語には分かつといえども心は権大乗のおもむきを出でず。これらは「不退の諸の菩薩は、その数恒沙のごとくして、また知ること能わじ」とおぼえて候なり。
 疑って云わく、唐土の人師の中に、慈恩大師は十一面観音の化身、牙より光を放つ。善導和尚は弥陀の化身、口より仏をいだす。この外の人師、通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人、世に多し。なんぞ権実二経を弁えて法華経を詮とせざるや。
 答えて云わく、阿竭多仙人外道は、十二年の間、耳の中に恒河の水をとどむ。婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも、張階は霧をいだし、欒巴は雲をはく。第六天の魔王は仏の滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり。通力をもって智者・愚者をばしるべからざるか。ただ仏の遺言のごとく、一向に権経を弘めて実経をついに弘めざる人師は、権経に宿習ありて実経に入らざらん者は、あるいは魔にたぼらかされて通を現ずるか。
 ただ法門をもって邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず。
  文応元年太歳庚申五月二十八日    日蓮 花押
  鎌倉名越において書き畢わんぬ。