SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 されば、心あらん人々は「我らがために」と思しめすべし。もし恩を知り心有る人々は、二つ当たらん杖には一つは替わるべきことぞかし。さこそ無からめ、還って怨をなしなんどせらるることは心得ず候。また在家の人々の、能くも聞きほどかずして、あるいは所を追い、あるいは弟子等を怨まるる心えぬさよ。たとい知らずとも、誤って現の親を敵ぞと思いたがえて、詈り、あるいは打ち殺したらんは、いかに科を免るべき。
 この人々は、我があらぎをば知らずして、日蓮があらぎのように思えり。譬えば、物ねたみする女の眼を瞋らかしてとわりをにらむれば、己が気色のうとましきをば知らずして、還って、とわりの眼おそろしと云うがごとし。
 これらのことは、ひとえに国主の御尋ねなき故なり。また、いかなれば御尋ねなきぞと申すに、この国の人々、あまり科多くして、一定、今生には他国に責められ、後生には無間地獄に堕つべき悪業の定まりたるが故なりと経文歴々と候いしかば、信じ進らせて候。このことは、各々、たとい我らがごとくなる云うにかいなき者どもを責めおどし、あるいは所を追わせ給い候とも、よも終には只は候わじ。この御房の御心をば、たとい天照太神・正八幡も、よも随えさせ給い候わじ。まして凡夫をや。されば、度々の大事にもおくする心なく、いよいよ強盛に御坐しますと承り候と、かようのすじに申し給うべし。
 さて、その法師物申さば、取り返して、「さて、申しつることは僻事か」と返して、「釈迦仏は親なり師なり主なりと申す文、法華経には候か」と問うて、「有り」と申さば、「さて、阿弥陀仏は御房