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対してやぶりたる経文はいだし給わず。ただ印・真言ばかりの有無をゆえとせるなるべし。数百巻のふみをつくり、漢土・日本に往復して無尽のたばかりをなし、宣旨を申しそえて人をおどされんよりは、経文分明ならばたれか疑いをなすべき。
つゆつもりて河となる、河つもりて大海となる、塵つもりて山となる、山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる。いかにいわんや、このことは最も大事なり。疏をつくられけるにも、両方の道理・文証をつくさるべかりけるか。また宣旨も、両方を尋ね極めて、分明の証文をかきのせていましめあるべかりけるか。
「已今当」の経文は、仏すらやぶりがたし。いかにいわんや、論師・人師・国王の威徳をもってやぶるべしや。「已今当」の経文をば、梵王・帝釈・日月・四天等、聴聞して各々の宮殿にかきとどめておわするなり。まことに「已今当」の経文を知らぬ人の有る時は先の人々の邪義はひろまりて失なきようにてはありとも、この経文をつよく立てて退転せざるこわもの出来しなば、大事出来すべし。いやしみて、あるいはのり、あるいは打ち、あるいはながし、あるいは命をたたんほどに、梵王・帝釈・日月・四天おこりあいて、この行者のかとうどをせんほどに、存外に天のせめ来って、民もほろび、国もやぶれんか。法華経の行者はいやしけれども、守護する天こわし。例せば、修羅が日月をのめば頭七分にわる、犬が師子をほゆればはらわたくさる。今、予みるに、日本国かくのごとし。またこれを供養せん人々は法華経供養の功徳あるべし。伝教大師、釈して云わく「讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」等云々。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(393)衆生身心御書 | 建治期 |