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詮ずるところは、目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆえぞかし。自身仏にならずしては、父母をだにもすくいがたし。いおうや他人をや。
しかるに、目連尊者と申す人は、法華経と申す経にて、「正直に方便を捨つ」とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて、名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。この時こそ、父母も仏になり給え。故に、法華経に云わく「我が願いは既に満じて、衆の望みもまた足りなん」云々。目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心仏になりしかば、父母の身もまた仏になりぬ。
例せば、日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に、平氏の大将・安芸守清盛と申せし人おわしき。度々の合戦に国敵をほろぼして、上太政大臣まで臣位をきわめ、当今はまごとなり、一門は雲客月卿につらなり、日本六十六国・島二つを掌の内にかいにぎりて候いしが、人を順うること大風の草木をなびかしたるようにて候いしほどに、心おごり身あがり、結句は神仏をあなずりて、神人と諸僧を手ににぎらんとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去ぬる治承四年十二月二十二日に、七寺の内、東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば、その大重罪、入道の身にかかりて、かえるとし養和元年閏二月四日、身はすみのごとく血は火のごとく、すみのおこれるがようにて、結句は炎身より出でてあっちじにに死ににき。その大重罪をば二男宗盛にゆずりしかば、西海に沈むとみえしかども東天に浮かび出でて、右大将頼朝の御前に縄をつけてひきすえて候いき。三男知盛は、海に入って魚の糞となりぬ。四男重衡は、その身に縄をつけて京・かまくらを引きかえ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(387)盂蘭盆御書 | 弘安元年(’78)または同2年(’79)の7月13日 | 57歳または58歳 | 治部房の祖母 |