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にあわせて候は心うし」となげき候いしかば、仏説いて云わく「汝が母はつみふかし。汝一人が力及ぶべからず。また多人なりとも、天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず。七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味おんじきととのえて、母のくはすくうべし」と云々。目連、仏の仰せのごとく行いしかば、その母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。それによって、滅後末代の人々は七月十五日にこの法を行い候なり。これは常のごとし。
日蓮案じて云わく、目連尊者と申せし人は、十界の中に声聞道の人、二百五十戒をかたく持つこと石のごとし。三千の威儀を備えてかけざることは十五夜の月のごとし。智慧は日ににたり、神通は須弥山を十四そうまき、大山をうごかせし人ぞかし。かかる聖人だにも重報の乳母の恩ほうじがたし。あまつさえ、ほうぜんとせしかば、大苦をまし給いき。いまの僧等の、二百五十戒は名ばかりにて、事をかいによせて人をたぼらかし、一分の神通もなし。大石の天にのぼらんとせんがごとし。智慧は牛にるいし羊にことならず。たとい千万人をあつめたりとも、父母の一苦すくうべしや。
せんずるところは、目連尊者が乳母の苦をすくわざりしことは、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆえぞかし。されば、浄名経と申す経には、浄名居士と申す男、目連房をせめて云わく「汝を供養せば、三悪道に堕つ」云々。文の心は、二百五十戒のとうとき目連尊者をくようせん人は、三悪道に堕つべしと云々。これまた、ただ目連一人がきくみみにはあらず。一切の声聞、乃至、末代の持斎等がきくみみなり。この浄名経と申すは、法華経の御ためには数十番の末の郎従にて候。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(387)盂蘭盆御書 | 弘安元年(’78)または同2年(’79)の7月13日 | 57歳または58歳 | 治部房の祖母 |