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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の出でさせ給うまで、まず序分にあらあら申すなり。しかるに、この法門出現せば、正法・像法に論師・人師の申せし法門は、皆、日出でて後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし。この時には、正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きえうせて、ただこの大法のみ一閻浮提に流布すべしとみえて候。各々はかかる法門にちぎり有る人なれば、たのもしとおぼすべし。
 またうつぶさの御事は、御としよらせ給いて御わたりありし、いたわしくおもいまいらせ候いしかども、「うじがみへまいりてあるついで」と候いしかば、げんざんに入るならば定めてつみふかかるべし。その故は、神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君へのげんざんは世間にもおそれ候。その上、尼の御身になり給いては、まず仏をさきとすべし。かたがたの御とがありしかば、げんざんせず候。これまた尼ごぜん一人にはかぎらず、その外の人々も、「しもべのゆのついで」と申す者をあまたおいかえして候。尼ごぜんは、おやのごとくの御としなり。御なげき、いたわしく候いしかども、この義をしらせまいらせんためなり。
 またとのは、おととしかのげんざんの後、そらごとにてや候いけん、御そろうと申せしかば、「人をつかわしてきかん」と申せしに、この御房たちの申せしは、「それはさることに候えども、人をつかわしたらば、いぶせくやおもわれ候わんずらん」と申せしかば、「世間のならいはさもやあるらん。げんに御心ざしあるなる上、御所労ならば御使いも有りなん」とおもいしかども、御使いもなかりしかば、いつわりおろかにておぼつかなく候いつる上、無常は常のならいなれども、こぞ・ことしは世間ほうにすぎて、みみえまいらすべしともおぼえず、こいしくこそ候いつるに、御おとずれある。う