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尼は、名聞名利に著し、上には袈裟衣を着たれば形は僧・比丘尼に似たれども、内心には邪見の剣を提げて、我が出入りする檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致し、余の僧尼を寄せずして檀那を惜しまんこと、譬えば犬が前に人の家に至って物を得て食らうが、後に犬の来るを見ていがみほえ、食い合うがごとくなるべしという心なり。かくのごときの僧尼は、皆々、悪道に堕すべきなり。この学徒・日源は、学生なればこの文をや見させ給いけん、殊の外に僧衆を訪い顧み給うこと、誠に有り難く覚え候。
御文に云わく「この経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり。ただし、聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我らが唱え申す題目の功徳と、いか程の多少候べきや」と云々。さらに勝劣あるべからず候。
その故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の然せる火も智者の然せる火も、その差別なきなり。ただし、この経の心に背いて唱えば、その差別有るべきなり。
この経の修行に重々のしなあり。その大概を申さば、記の五に云わく「悪の数を明かすとは、今の文には説・不説を云うのみ。ある人これを分かちて云わく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪因に十四あり。一に憍慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり」。この十四誹謗は在家・出家に亘るべし。恐るべし、恐るべし。
過去の不軽菩薩は、「一切衆生に仏性あり。法華経を持てば必ず成仏すべし。彼を軽んじては仏を
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(374)松野殿御返事(十四誹謗の事) | 建治2年(’76)12月9日 | 55歳 | 松野六郎左衛門 |