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人ならば、憍尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。
案ずるに、経文のごとく申さんとすれば、おびただしきようなり。人もちいんこともかたし。これを信ぜじと思えば、如来の金言を疑う失は、経文明らかに阿鼻地獄の業と見えぬ。進退わずらい有り、いかがせん。
この法門を、教主釈尊は四十余年が間は胸の内にかくさせ給う。さりとてはとて、御年七十二と申せしに、南閻浮提の中天竺王舎城の丑寅、耆闍崛山にして説かせ給いき。今、日本国には仏御入滅一千四百余年と申せしに来りぬ。それより今、七百余年なり。先の一千四百余年が間は、日本国の人、国王・大臣乃至万民、一人もこのことを知らず。
今、この法華経わたらせ給えども、あるいは念仏を申し、あるいは真言にいとまを入れ、禅宗・持斎なんど申し、あるいは法華経を読む人は有りしかども、南無妙法蓮華経と唱うる人は日本国に一人も無し。日蓮、始めて建長五年夏の始めより二十余年が間、ただ一人、当時の人の念仏を申すように唱うれば、人ごとにこれを笑い、結句は、のり、うち、切り、流し、頸をはねんとせらるること、一日二日、一月二月、一年二年ならざれば、こらうべしともおぼえ候わねども、この経の文を見候えば、檀王と申せし王は、千歳が間、阿私仙人に責めつかわれ、身を牀となし給う。不軽菩薩と申せし僧は、多年が間、悪口・罵詈せられ、刀杖・瓦礫を蒙り、薬王菩薩と申せし菩薩は、千二百年が間身をやき、七万二千歳ひじを焼き給う。これを見はんべるに、いかなる責め有りとも、いかでかさてせき留むべ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(373)松野殿御消息(一劫の事) | 建治2年(’76)2月17日 | 55歳 | 松野六郎左衛門 |