1979ページ
くる人も候わぬに、ほととぎすにつけての御ひとこえ、ありがたし、ありがたし。
さては、あつわらの事、こんどをもっておぼしめせ。さきもそら事なり。こうのとのは、「人のいいしにつけて、くわしくもたずねずしてこの御房をながしけること、あさまし」とおぼして、ゆるさせ給いてののちは、させるとがもなくては、いかんがまたあだせらるべき。
すえの人々の、法華経を心にはあだめども、うえにそしらばいかんがとおもいて、事にかずけて人をあだむほどに、かえりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみぎょうそと申すことは、みぬさきよりすいして候。さどの国にても、そらみぎょうそを三度までつくりて候いしぞ。
これにつけても、上と国との御ため、あわれなり。木のしたなるむしの木をくらいたおし、師子の中のむしの師子を食らいうしなうように、守殿の御おんにてすぐる人々が、守殿の御威をかりて、一切の人々をおどし、なやまし、わずらわし候うえ、上の仰せとて法華経を失って、国もやぶれ、主をも失って、返って各々が身をほろぼさんあさましさよ。
日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまぼらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は、剣をのみ、火を手ににぎるなるべし。これにつけても、いよいよ御信用のまさらせ給うこと、とうとく候、とうとく候。
五月三日 日蓮 花押
窪尼御返事
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(371)窪尼御前御返事(虚御教書の事) | 弘安期 | 窪尼 |