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また人をもわずらわさず、我が心もなおしく、我とはげみて善根をして候も、仏にならぬこともあり。いわく、よきたねをあしき田にうえぬれば、たねばかりもなき上、かえりて損となる。まことの心なれども、供養せらるる人だにもあしければ、功徳とならず、かえりて悪道におつること候。
これは、日蓮を御くようは候わず、法華経の御くようなれば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏にこの功徳はまかせまいらせ候。そもそも今年のことは申しふりて候上、当時はとしのさむきこと、生まれて已来いまだおぼえ候わず。ゆきなんどのふりつもりて候ことおびただし。心ざしある人もとぶらいがたし。御おとずれ、おぼろけの御心ざしにあらざるか。恐々謹言。
十二月二十七日 日蓮 花押
くぼの尼御前御返事
(371)
窪尼御前御返事(虚御教書の事)
弘安期 窪尼
粽五把・笋十本・千日ひとつつ、給び了わんぬ。
いつものことに候えども、ながあめふりてなつの日ながし。山はふかく、みちしげければ、ふみわ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(370)窪尼御前御返事(供養善根の事) | 弘安4年(’81)12月27日 | 60歳 | 窪尼 |
(371)窪尼御前御返事(虚御教書の事) | 弘安期 | 窪尼 |