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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

るされしなり。伝教大師の御師・護命と申せし聖人は、南都第一の僧なり。四十人の御弟子あいぐして、仁王経をもって祈雨ありしが、五日と申せしに雨下りぬ。五日はいみじきことなれども、三日にはおとりて、しかも雨あらかりしかば、まけにならせ給いぬ。これをもって弘法の雨をばすいせさせ給うべし。
 かく法華経はめでたく真言はおろかに候に、日本のほろぶべきにや、一向真言にてあるなり。隠岐法皇のことをもっておもうに、真言をもって蒙古とえぞとをじょうぶくせば日本国やまけんずらんとすいせしゆえに、このこと、いのちをすてていいてみんとおもいしなり。いいし時は、でしらせいせしかども、いまはあいぬれば、心よかるべきにや。漢土・日本の智者、五百余年が間一人もしらぬことをかんがえて候なり。
 善無畏・金剛智・不空等の祈雨に、雨は下って、しかも大風のそい候は、いかにか心えさせ給うべき。外道の法なれども、いうにかいなき道士の法にも雨下ることあり。まして仏法は、小乗なりとも、法のごとく行うならば、いかでか雨下らざるべき。いおうや、大日経は、華厳・般若にこそおよばねども、阿含にはすこしまさりて候ぞかし。いかでかいのらんに雨下らざるべき。されば、雨は下って候えども大風のそいぬるは、大いなる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし。弘法大師の、三七日に雨下らずして候を、天子の雨を我が雨と申すは、また善無畏等よりも大いにまさる失のあるなり。
 第一の大妄語には、弘法大師の自筆に云わく「弘仁九年の春、疫れいをいのりてありしかば、夜中に日いでたり」と云々。かかるそらごとをいう人なり。このことは日蓮が門家第一の秘事なり。本文