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民が家に生まれたる者、「我は侍に斉し」なんど申せば、必ずとが来る。まして「我、国王に斉し」、まして「勝れたり」なんど申せば、我が身のとがとなるのみならず、父母と申し、妻子といい、必ず損ずること、大火の宅を焼き、大木の倒るる時小木等の損ずるがごとし。
仏教もまたかくのごとく、華厳・阿含・方等・般若・大日経・阿弥陀経等に依る人々の、我が信じたるままに、勝劣も弁えずして、「我が阿弥陀経等は法華経と斉等なり」、はたまた「勝れたり」なんど申せば、その一類の人々は我が経をほめられうれしと思えども、還ってとがとなりて、師も弟子も檀那も悪道に堕つること、箭を射るがごとし。ただし、「法華経の一切経に勝れり」と申して候はくるしからず。還って大功徳となり候。経文のごとくなるが故なり。
この法華経の始めに無量義経と申す経おわします。譬えば、大王の行幸の御時、将軍前陣して狼籍をしずむるがごとし。その無量義経に云わく「四十余年にはいまだ真実を顕さず」等云々。これは、将軍が大王に敵する者を大弓をもって射はらい、また太刀をもって切りすつるがごとし。華厳経を読む華厳宗、阿含経の律僧等、観経の念仏者等、大日経の真言師等の者どもが法華経にしたがわぬをせめなびかす利剣の勅宣なり。譬えば、貞任を義家が責め、清盛を頼朝の打ち失せしがごとし。無量義経の「四十余年」の文は、不動明王の剣索、愛染明王の弓箭なり。
故南条五郎殿の、死出の山・三途の河を越し給わん時、煩悩の山賊、罪業の海賊を静めて、事故なく霊山浄土へ参らせ給うべき御供の兵者は、無量義経の「四十余年にはいまだ真実を顕さず」の文ぞかし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(334)上野殿母御前御返事(四十九日菩提の事) | 弘安3年(’80)10月24日 | 59歳 | 上野尼 |