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か。彼は天竺、これは日本。かれは女人、これはおとこ。かれは両のあし、これは両の手。彼は嫉妬の故、これは法華経の御故なり。されども、法華経の第五の巻はおなじきなり。彼の女人のあし地獄に入らざらんに、この両の手無間に入るべきや。ただし、彼は男をにくみて法華経をばにくまず。これは法華経と日蓮とをにくむなれば、一身無間に入るべし。経に云わく「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と云々。手ばかり無間に入るまじとは見えず。不便なり、不便なり。ついには日蓮にあいて仏果をうべきか。不軽菩薩の上慢の四衆のごとし。
夫れ、第五の巻は一経第一の肝心なり。竜女が即身成仏あきらかなり。提婆はこころの成仏をあらわし、竜女は身の成仏をあらわす。一代に分絶えたる法門なり。さてこそ、伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたることを十あつめ給いたる中に、即身成仏化導勝とはこのことなり。この法門は天台宗の最要にして、即身成仏義と申して、文句の義科なり。真言・天台の両宗の相論なり。竜女が成仏も法華経の功力なり。文殊師利菩薩は「唯常宣説妙法華経(ただ常に妙法華経のみを宣説す)」とこそかたらせ給え。「唯常」の二字は八字の中の肝要なり。菩提心論の「唯真言法中(ただ真言の法の中にのみ)」の「唯」の字と、今の「唯」の字と、いずれを本とすべきや。彼の「唯」の字は、おそらくはあやまりなり。
無量義経に云わく「四十余年にはいまだ真実を顕さず」。法華経に云わく「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」。多宝仏は「皆これ真実なり」とて、法華経にかぎりて即身成仏ありとさだめ給えり。爾前経にいかように成仏ありともとけ、権宗の人々無量にいいくるうとも、ただ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(324)上野殿御返事(刀杖難の事) | 弘安2年(’79)4月20日 | 58歳 | 南条時光 |