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者を御あだみあり。わざわいにわざわいのならべるゆえに、この国土すでに天のせめをかぼり候わんずるぞ。
この人は先世の宿業か、いかなることぞ、臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いけることは、一眼のかめの浮き木の穴に入り、天より下すいとの大地のはりの穴に入るがごとし。あらふしぎ、あらふしぎ。
また、念仏は無間地獄に堕つると申すことをば、経文に分明なるをばしらずして、皆人、日蓮が口より出でたりとおもえり。「文はまつげのごとし」と申すはこれなり。虚空の遠きとまつげの近きと、人みることなきなり。この尼御前は、日蓮が法門だにもひが事に候わば、よも臨終には正念には住し候わじ。
また、日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々は、あしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは、法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。これにものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至、きさきの大臣已下にないないとつぐがごとし。わざわいのみなもとなり。正法・像法にはこの法門をひろめず。余経を失わじがためなり。今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、ただ南無妙法蓮華経なるべし。こう申し出だして候もわたくしの計らいにはあらず、釈迦・多宝・十方諸仏・地涌千界の御計らいなり。この南無妙法蓮華経に余事をまじえば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬれば、とぼしびせんなし。雨のふるに、露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬にまた薬を加えたることなし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(315)上野殿御返事(末法要法の事) | 弘安元年(’78)4月1日 | 57歳 | 南条時光 |