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文の心は、仏を一中劫が間供養したてまつれるより、末代悪世の中に、人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う。たれの人のかかるひが事をばおおせらるるぞと疑いおもい候えば、教主釈尊の我とおおせられて候なり。疑わんとも、信ぜんとも、御心にまかせまいらする。
仏の御舌は、あるいは面に覆い、あるいは三千大千世界に覆い、あるいは色究竟天までに付け給う。過去遠々劫よりこのかた、一言も妄語のましまさざるゆえなり。されば、ある経に云わく「須弥山はくずるとも、大地をばうちかえすとも、仏には妄語なし」ととかれたり。日は西よりいずとも、大海の潮はみちひずとも、仏の御言はあやまりなしとかや。
その上、この法華経は他経にもすぐれさせ給えば、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけ給う。一字一点も妄語は候まじきにや。
その上、殿はおさなくおわしき。故親父は、武士なりしかども、あながちに法華経を尊び給いしかば、臨終正念なりけるよしうけたまわりき。
その親の跡をつがせ給いて、またこの経を御信用あれば、故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。
あわれ、いきておわせば、いかにうれしかるべき。この経を持つ人々は、他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり。いかにいわんや、故聖霊も殿も、同じく法華経を信じさせ給えば、同じところに生まれさせ給うべし。いかなれば、他人は五・六十までも親と同じしらがなる人もあり、我わか
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(299)上野殿御返事(土餅供養の事) | 文永11年(’74)11月11日 | 53歳 | 南条時光 |