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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の方便品に、重ねて「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」ととかせ給えり。方便をすてよととかれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよととかれて候。
 こうたしかにくいかえして、実義をさだむるには、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」「久しくこの要を黙して、務めて速やかには説かず」等とさだめられしかば、多宝仏大地よりわきいでさせ給いて「このこと真実なり」と証明をくわえ、十方の諸仏八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給いき。二処三会、二界八番の衆生、一人もなくこれをみ候いき。
 これらの文をみ候に、仏教を信ぜぬ悪人・外道はさておき候いぬ、仏教の中に入り候いても、爾前権教の念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍、一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあいだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人々は、先判に付いて後判をもちいぬ者にては候まじきか。これらは、仏説を信じたりげには我が身も人も思いたりげに候えども、仏説のごとくならば、不孝の者なり。
 故に、法華経の第二に云わく「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり。しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ、能く救護をなす。また教詔すといえども、信受せず」等云々。この文の心は、釈迦如来は我ら衆生には親なり師なり主なり。我ら衆生のためには、阿弥陀仏・薬師仏等は、主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は、釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師・主はありがたくこそはべれ。この親と師と主と