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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 日蓮はその座には住し候わねども、経文を見候にすこしもくもりなし。またその座にもやありけん。凡夫なれば過去をしらず。現在は見えて法華経の行者なり。また未来は決定として当詣道場なるべし。過去をもこれをもって推するに、虚空会にもやありつらん。三世各別あるべからず。
 かくのごとく思いつづけて候えば、流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢、仏のことを思いいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱えさせ給えば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は、なきながら「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」と答え給う。余の九百九十九人は、なくなみだを硯の水として、また「如是我聞」の上に「妙法蓮華経」とかきつけしなり。今、日蓮もかくのごとし。かかる身となるも、妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏・多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとどめおき給うところの妙法蓮華経なりと、かくのごとく我も聞きし故ぞかし。
 現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思って喜ぶにもなみだせきあえず。鳥と虫とはなけどもなみだおちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。このなみだ世間のことにはあらず。ただひとえに法華経の故なり。もししからば甘露のなみだとも云いつべし。涅槃経には、父母・兄弟・妻子・眷属にわかれて流すところの涙は四大海の水よりもおおしといえども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。法華経の行者となることは過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるは、また宿業なるべし。
 この文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給え、意得させ給うべし。