SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

は知り給えども、言に出だし給うまではなし、胸の中にしてくらし給えり。それも道理なり。付嘱なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に。地涌の菩薩の中の上首唱導、上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし。これ即ち本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。
 されば、釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく「如来の秘密・神通の力」、これなり。「如来の秘密」は体の三身にして本仏なり、「神通の力」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。その故は、如来というは、天台の釈に「如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり」と判じ給えり。この釈に「本仏」というは凡夫なり、「迹仏」というは仏なり。しかれども、迷悟の不同にして生・仏異なるによって俱体俱用の三身ということをば衆生しらざるなり。
 さてこそ、諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候え。実相というは、妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経ということなり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば、地獄の実のすがたにはあらず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりということを、諸法実相とは申すなり。天台云わく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」云々。